*壱章〜再逢〜五*


 誰かが傷つくのが嫌だとか、よくそんな奇麗ごとが口をついて出たものだと、翡翠は自分が清秋に向けた言葉に、自嘲した。
 そんな、心優しい人間じゃない。綺麗な人間でもない。汚れて、穢れて、腐った人間なのだ、自分は。
 翡翠は、ただ、自分という存在を、なくしてしまいたかっただけだ。
 嫌われ、疎まれ、蔑まれ、嬲られ、甚振られ続ける、自分という存在を。
 抵抗すれば痛みが増える。苦しみが増えるのだ。ならば、ただ、流されて、言い成りになっていた方が、痛みも苦しみも、少なくて済むのだ。
 だから、贄になろうと思った。贄となって鬼にでも喰われてしまった方が、余程、今まで生きてきた無為な自分という存在に、意味が生まれるような気がして。
 それに、鬼を見てみたいとも、思った。鬼子と呼ばれる自分と、似たような姿をしているのだろうか。化物と謗られた自分に、似ているだろうか。
 夕暮れ時、村長が翡翠の家を訪れ、重々しく口を開いた。
 新月である今宵、一人で山の中へと入り、誰一人として通る物のない獣道を歩き、何も祀るものの入っていない空の社の前で、待っていろ、と。
 口頭でだけ告げられた道筋を、ゆっくりと歩いていく。ほぼ毎日のように山の中に入っていた翡翠ですら知らないその道は、本当に使う者がいないのだろう、丈の高い草が繁茂し、歩きづらかった。
 頼りない細さの松明だけを持ち、家を出てきた翡翠は、ただ、黙々と月明かりのない山道を歩いた。
 恐怖は、なかった。寂しさも、なかった。自分は、生まれた瞬間から、死ぬその瞬間まで、一人なのだとわかっていたから。
 せめて、美味しいと言ってくれればいい。不満に思わず、村から贄を取ることを一年でも長く、遠ざけられれば。
 どんなに悪口雑言を浴びせてきても、あの村は翡翠を住まわせてくれたのだ。その、恩返しが出来ればいいと、そう思った。
「ここ、か?」
 多少上がった息を整えて、薄ぼんやりと松明の光に闇の中から浮かびあがった、朽ちかけた社の前に、腰を下ろす。
 いつまで待てば、鬼が来るのだろう。
 この社は、誰が作ったのだろう。
 鬼はずっと、この山の中に住んでいるのだろうか。
 女と男ではどちらが美味しいのだろう。
 そんな、答えのない、取り留めもない疑問を頭の中に浮かべては消し、浮かべては消して、溜息をつく。
 考えた所で、どうせすぐに喰われてしまうのだから、意味はないだろうに、と。
 と、唐突に、松明の炎が消えた。風が吹いたわけでもないのに、だ。
「え?」
 見えないとわかっていても、持っていた松明に視線を向けるのと同時に、首に衝撃を感じた。
「な、に………」
 痛い、と翡翠が感じるのと同時に、その意識は閉じられた。


 口を濡らした甘い味、滑る感触に、感覚を取り戻す。
 見下ろせば、土の上に、細い体が落ちている。
 闇の中でもよく見える眼が、否応なくその姿を捉え、釘付けにする。
 首筋を抉るように鋭い牙の跡が残り、止め処なく、甘い香りを放つ血が流れている。
 ゆっくりと腕を上げ、指先で口元を拭えばそこに、ねっとりとした血が、ついている。
「俺は………こいつを、喰ったのか?」
 喰うために呼んだ。だが、喰うのはまだ先の筈だった。恐怖を与え、苦しみを与え、それから絶望が頂点に達した時の肉が、甘い。それまで、待つつもりだった。
 だというのに………
「意識を、飛ばしたのか?」
 本能が、理性を食い破った。そうとしか、思えなかった。
「くそっ!」
 振り上げた腕で、近くにあった社を壊す。音を立てて脆くなった社は崩れ落ち、台座の石だけになった。
 膝をつき、細い体を抱き上げれば、まだ、息があった。もう、このまま喰ってしまった方が、こいつのためにもなるだろうと、牙をむき出しにすると、瞼が震えて、持ち上がった。
「なっ………」
 翡翠色の、双眸。
 すぐに瞼は落ちたが、垣間見えたその綺麗な色に、腕が震え、咄嗟に、首筋の傷口へ手を添えていた。
 手が仄かに発光し、そこから力を送りこんでやる。すると、瞬く間に、傷口が塞がっていく。血に汚れた着物はどうにもしてやれなかったが、傷口を塞ぐことはできた。
「こいつ、あの時の………」
 脳裏の片隅にあった、淡い記憶が、過ぎった。
『あなたは、だぁれ?』
 怯えたような視線と傷だらけの顔を、今も鮮明に、思い出すことが出来た。


 眼を覚まして、最初に見たのは、闇。
 そして、その中に突如として出現した、橙色を見た。
 その橙色は、燈台に灯った炎の色。
 肘をついて起き上がり、視線を巡らして手に触れた感触に、自分が酷く上等な布地の寝床に寝ているのだと、ようやく気がついた。
「起きたか?」
 声のした方へと向くと、何時から室内にいたのか、男が一人。
 その上等な狩(かり)衣(ぎぬ)は、細かく施された金糸の模様と、死人が着るような白の布地で、黒い闇の中、外の光の届かない部屋で、燈台の炎の明かりに照らされて、男の冷笑を、映えあるものにしている。
 耳に光る青い石。狩衣と同等な程に白い肌と、銀灰色の長い髪と瞳。闇を弾いて存在しているような白さの中に、明らかに、人とは異なるものを、翡翠は眼にした。
 頭上に生える、乳白色の、角。
 ………鬼。
 人とは異なる姿を持ち、人の肉を喰らい、人の血を啜り、長い命を生き、人が持ち得ない力を操り、使うという。
「あ………」
 声が、うまく出なかった。あまりに白く、美しいその姿に、視線を、思考を、全てを奪われる。
 これほどに美しい存在が、この世に存在するのかと、そう、思えるほどの………
「今度の生贄は、随分と見目がいいな。本当に、あの村の人間か?」
 低く、よく通る美しい声が、部屋に厳かに響く。燈台の明かりに照らされた、白い鬼の姿が視界から消え、再び現れた時には、肌が触れるほど、間近にあった。
「お前、本当に、人間か?」
体を流れる血が沸騰している。だが、思考は冴えていて、体は動いて、逃げることもしない。
頬へ滑る指先の長い爪が、まるで皮膚を切り裂こうとでもいうように、肌の上を走る。
 だが、血が沸騰し、思考が冴え渡っているのは、そうして齎される、死への序章にではなく、美しすぎる鬼の姿………それ所以だ。
「こんな瞳の色を持つ人間など、そうそういるものではないだろう?」
 問われているのだと気づき、視線を返す。
「僕は、人間です。あの村の、村人です」
「ふん。ならば、生贄で間違いないと言うことか。殺されてから喰われるのと、生きたまま喰われるのと、どちらが好みだ?」
「どうぞ。お好きに」
 躊躇もなく、するりと口から零れた自分の言葉に、翡翠は苦笑する。
 そんな言葉が返されるとは、予想していなかったのか、鬼が少し身を引く。
「何?」
 鬼が手を離し、翡翠の側から離れようとする。だが、離れていく腕を逆に掴み、翡翠は静かに目を閉じる。
「どうぞ。殺してください」
 覚悟はできていた。それが、現実として眼の前に、今、存在しているというだけ。
「お前………」
「僕は、その為に此処へ来たんです。生贄として、村の為に」
 誰かの為に死ねるのならば、それでいい。
 自分という存在が、消えてしまうのならばそれでいい。
「離せ」
 低く、強張った声音で鬼が言い、翡翠の手を退かそうとするが、翡翠も己に与えられた命(めい)を果たす為に、退かせまいとする。
「殺すなら、一思いに………」
 眼の前にいる鬼に殺されるのならば、苦痛ではないだろう、と。何故、そんな風に思うのか………今掴んでいるこの手が、とても、温かいからだろうか。
「離せと言っている!」
 鬼の怒号と同時に、燈台の明かりが消え、翡翠の手が振り払われる。
「まさか、本当に貴様が、生贄だとは、な」
「え?」
 戸惑い、闇の中で、鬼の姿を捜そうと視線を巡らす翡翠の頭上に、何かの布が降ってくる。
「着替えろ。そんな薄汚れた格好でいるな」
「薄汚れ?」
 絶句した翡翠の視界に橙色の灯りが映る。一度消えた燈台に、再び火が灯されたのだ。
「とっとと着替えて、ついて来い、翡翠」
「え?如何して、僕の名前………」
 名乗ってはいないのに、確かに今、鬼は翡翠の名前を呼んだ。
「何故だと思う?」
 何か、悪戯を思いついた小さな少年のように無邪気な笑顔を、鬼は翡翠に向けた。


 細く、微かな月が、大分傾いて、西の空へと昇っている。それは、翡翠が家を出た日から、一日経過していると言うことだ。
 丸々一日も眠っていたのかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしく、寝汚いにも程があると、己を叱咤する。
 それが、鬼に喉元を喰い破られ、血を流したせいだとは、微塵も気づいていない。
 鬼は板張りの廊を先に行き、後をついてくる翡翠の歩幅など気にも留めないように、歩いていく。その後を歩く翡翠は、つい、小走りになってしまう。
 大きく、貴族が住むように豪奢だが、落ち着いた造りをしている屋敷。離れと母屋を繋ぐ廊は少し短いが、部屋数が多いのか、広さは尋常ではない。
「此処だ」
 そう言って、屋敷の突き当たりになるのであろう部屋の引き戸を開き、中へ入って行くのを見て、翡翠も急いでそれを追って中に入り、驚きに眼を見開く。
 部屋の中は壁も床も板張りで、中に四角く囲われた湯船がある。その中の湯から、濛々と湯気が上がる。
「俺は、土臭い人間を喰う気はないからな。泥を落としてこい」
「土臭………」
「小牧」
「はい」
 突然真後ろから声が聞こえ、振り返ると、長い黒髪を束ね、小袖の上に単を羽織っただけの、簡素な着物を着た女性がおり、一体何処から現れたのかと、眉根を寄せる。そんな翡翠を見ても、小牧と呼ばれた女性は、特に気にする様子もなく、微笑んだ。
「こいつに湯殿の使い方を教えてやれ」
「畏まりました。さ、どうぞ」
「え?あ、あの、僕………」
 有無を言わさず翡翠の背を押し、小牧は湯船の近くまで翡翠を連れて行く。
「さっき来た道は覚えているな?終わったら戻ってこい」
「はい」
「それと、俺の名前は、驟雨と言う」
「驟、雨………」
「まあ、後幾度、お前が俺の名を呼べるかは分からんが、一応教えておく」
 声を押し殺して笑うと、鬼―驟雨は、それ以上翡翠を気に留めずに、今来た道を戻っていった。


 驟雨…その名は、俄雨。
 鬼の顔を見せたかと思えば笑顔を見せる、俄雨。


 ゆっくりと、着物を着たまま湯船に足を入れる。お手伝いします、という小牧の言葉を頑なに断り、翡翠は一つ、息をついた。
 薄絹の着物を着たまま湯船につかり、湯船から出たら体を拭って新しい着物に着替えるように、と言われた。手拭いは桶の中へ置かれ、そのそばに絹織物と思われる着物が置かれている。
 あの着物を売ったら、一体どれだけの米が買えるだろう、と考えてしまうのは、空腹のせいだろうかと、腹を摩る。
 丸一日寝ていたということは、その間食事をしていないということだ。腹も空く。
 けれど、もう、食事をすることはないだろう。土臭い人間を喰う気はないと言っていたのだ。汚れを落とせば、喰う気が起こるということだろう。
 湯船から上がり、濡れた着物を脱いで手拭いで体を拭き、片手を目じりに添えた。
「綺麗な、鬼だったな」
 白く、白く、どこまでも汚れのない、色。
「僕が、一番醜いじゃないか」
 手拭いを畳み、体中に残る傷や痣を隠そうと、手早く着物を身に着け、湯殿を出た。


 来た時と同じ道を帰ったはずなのに、広すぎる屋敷の中で、翡翠は迷っていた。
「ここ、何処?」
 行けども、行けども、同じ部屋が連なっているようにしか、見えない。こうなったら、もう一度湯殿へ戻り、そこから始めた方がよさそうだと振り返るが、振り返った先も同じような道にしか思えず、最早湯殿が何処にあるのかすら、わからなかった。
「迷子?家の中で?」
 情けない、と呟いてしゃがみこむと、翡翠殿、と名を呼ばれた。
 顔を上げると、腰から太刀を下げた男が一人、立っていた。
「主より、案内を仰せつかりました。小峰と申します」
「あ、はい!」
 急いで立ち上がると、小峰が先に立って歩き出す。
「あ、あの!」
「はい?」
「貴方達は、人間ですよね?」
「いいえ。違います」
「え?」
「私や小牧は、傀儡です」
「傀儡?」
「鬼より力を受けて、人の容を取っております。元々は人ではありません」
「そう、なんですか」
「はい」
 会話が途切れ、どれだけの長い廊を歩いたかわからなくなった頃、一つの部屋へ通された。
「こちらでお待ちください。すぐに小牧が食事を持ってまいります」
「食事?」
「はい。人に食事は必要不可欠と伺っております」
「でも、僕は………」
「失礼します」
 小峰が御簾の向こう側へ姿を消し、どうするべきか迷った翡翠は、仕方なく置かれていた円座の一枚に、腰を下ろした。
 室内に、調度はない。けれど、襖に描かれている花鳥の絵柄が、決して安物ではないことはわかった。
 まるで、上流貴族の屋敷のようだった。一体、これだけの屋敷が、山の何処にあったのだろう。広さも十分すぎるほどだし、通りがかりには池を擁した庭も見えた。
「失礼します」
 声がかかり、小牧が膳を持って、入ってきた。膳の上には、一汁三菜が載っている。その上、碗に盛られた飯は、白米だった。
「あ、あの、これ………」
「何か、苦手な物がございましたか?」
「そうじゃなくて、あの、白米………」
「白米が、どうか?」
「た、た、高い、ですよね?」
「そうなんですか?私共は口にしないので、とんとわからないのですが、驟雨様が、白米を、と」
「は、はぁ」
 きらきらしく輝く白米を、翡翠はじっと見つめた。正直、白米を口にするのは、初めてだった。普段は、粟や稗が主で、白米は稲刈りが成功し、祭りを村で行う時にのみ供されるのだが、翡翠には絶対に振舞われなかったからだ。
 椀を持ち、眼の高さで、右へ、左へと動かして、ぐるりと椀を回してみて、様々な角度から白米を眺める。きらきらと光っているのが、とても綺麗だった。
「お酒は召されますか?」
「え?いえ、僕は、お酒は苦手で………」
「では、白湯をお持ちいたします」
 妙な行動をする翡翠を咎めもせず、小牧が一度下がり、暫くして白湯を持ってきた。そうして再び小牧が下がってしまうと、一人になり、翡翠は、本当に食べていいのかと、箸を掴んだ。
 そこへ、荒々しい足音が近づいてきて、御簾が上がった。
 翡翠の座る正面へ、円座も使わずに腰をおろし、持っていた酒瓶を置くと、鬼は翡翠を眺めやった。
「ふん。ましになったな。早く食え」
「あの、どうして、僕に食事を?僕を、喰わないんですか?」
「食欲が湧かん」
「は、ぁ」
「それに、もう少し太っていた方がいい。筋ばかりでは美味くない」
 ああ、そうか………と翡翠は箸を持った手に力を込めた。
「わかりました。じゃあ、頑張って太るように努力してみます」
「何?」
「貴方に美味しい、って思われれば、僕にも意味があったように思えるから」
 椀の中の白米を掬い、口に運ぶ。初めて食べた白米は、自分が喰われる側にあるのだと分かっていても、甘くて、美味しかった。


 いつの間にか上がった太陽が、ゆっくりと漆黒の空の色を、白色から青色へと変えている。
 俺に喰う気が起きるまでは好きにしろ、と言われて、翡翠は廊から庭へ降りる階に座りこんで、庭を眺めていた。
 一度迷子になってしまったため、屋敷の中を動きまわろうという気にはならなかった。一部屋与えられ、使えと言われたが、その部屋かその部屋の前の廊や階にいる位しか、することがなかった。
 今までは、毎日山へ入り、薬草を取って薬を作っていた。そうでなければ、出来た薬を持って都へと売りに出ていた。
 それなりに、体を動かす忙しい日々だったのだと、思い至る。
「退屈だ」
 することがない、というのは退屈なのだと気づき、あの鬼は一体、普段何をして過ごしているのだろうと、思いめぐらす。
 そもそも、鬼とは何をしているのだろう。農民のように田畑を耕すのでもないだろう。かといって、商人のように物を仕入れて売るわけでもないだろう。けれど、今翡翠が着ているような上等な着物を購入することが出来るのだから、金子は持っているのだろう。ならば、その金子は、どうやって手に入れているのだろう。
「どうかされましたか?」
「え?」
 気配もなく、いつの間にか真横に立っていた小峰に、翡翠は顔を上げた。
「手持無沙汰の御様子。何かされますか?書物であれば御座いますが」
「書物があるんですか?」
「はい。物語などでしたら。ご案内します」
 翡翠の意思を確認せずに歩きだした小峰を追いかけるように、翡翠は急いで立ち上がり追いかけた。
 すると、幾つか部屋を通り越した場所に、塗籠と思しき部屋があり、その木戸を小峰が引き開けた。
「どうぞ」
 中は、紙特有の香りが漂う、暗い部屋だった。塗籠に、窓は一切ない。だからこそ、紙の香りも出て行かないのだろう。
「夕餉時には、また声をおかけします。それまでは好きにお過ごしください」
 それだけ言うと、小峰は掻き消えるように姿を消した。それを見て、ああ、やはりこの屋敷に人間は、自分一人なのだと、思い知らされ、翡翠は一番近くにあった巻物を手に取り、廊へと出た。











2013/2/16初出