*壱章〜再逢〜六*


 空になってしまった土瓶を持ち、台盤所(だいばんどころ)へと向かう。普段、ここは驟雨が飲むための酒しか置いていないが、今は翡翠がいるため、幾らかの食料を用意しておけと、小牧に言いつけてあった。
 驟雨は、鬼だ。人間の食べ物を食べることは問題ないが、食わなくとも生きていけた。時折酒だけでは物足りなくなり、つまむ程度に魚などを食うこともあるが、その場合は大抵、生だ。火を通した物は、食べなかった。食べる必要がなかったからだ。
 その代わり、人を喰う。人を一人喰えば、数十年は空腹を感じないからだ。
 今は既に、二十年近く人を喰っていない。だからこそ、本能が求め、理性を食い破ることになっているのだと、わかってはいた。
 だが、昨日翡翠の血を口にしたことで、まだ暫くは、空腹を感じずに済みそうだった。
 今日は後何本酒を呑もうかと、空の土瓶を眺めながら廊の角を曲がった瞬間、何かに足を取られ、体が宙に浮いた。それを、鬼の力でもって体を守り、転ばずに着地する。
「何だ、一体!」
 怒鳴り声をあげて振り返り、危うく、驟雨は土瓶を落とす所だった。
 何本かの巻物を置いた翡翠が、横になって眠っていたからだ。
「何故、こんな場所で寝ている………」
 読み途中だったのだろう巻物が解けて転がり、読み終わったのかこれから読むのか、数本の巻物が体の側に置かれている。恐らく、小峰辺りが塗籠へ案内したのだろう。
 呆れに溜息をつき、土瓶を置いて、解けて転がった巻物を、拾い上げて巻き取る。
 自分が集めた物ではないが、それなりに高価だろうと思われるこれらをぞんざいに扱われるわけには、いかなかった。他の巻物と共に、塗籠の中へ戻し、戸を閉める。
「………起こす、べきか?」
 傍らに、自分を喰らうであろう鬼がいるというのに、全く気付かずに寝こけている翡翠を眺めていると、喰う気が失せるのだから、不思議なものだった。
 驟雨の好きなのは、悲鳴と絶望に彩られた人間を喰うことだ。こんな、死を受け入れ、泣きも喚きもしない人間を喰うのは、好みではなかった。
 恐怖と、悲哀と、絶望を与えてこそ、復讐になる。そう、思っているからだ。
 いっそ、喰う気が起きないのだから、こいつを村へ返し、新しい贄を呼ぼうかとすら、考えている始末だ。
 それに………
「もしも、お前が、本当に、あの時の子供ならば………」
 傷だらけで、叢の中に隠れるように膝を抱え、震えて泣いていた子供を思い出す。
 哀れだった。どんな暴力を受けたのかはわからないが、双眸に、生きようとする力が皆無だった。
 死んだ魚のような虚ろな瞳というのは、こういうのを言うのだろうと、思ったものだった。
「仕方ない」
 風邪でもひかれて、喰う前に病で死なれても困る。病で死んだ体は不味い。
 膝をつき、背中と膝裏へ手を差し入れようとした時、翡翠の双眸がゆっくりと開いた。
 ゆっくりと動いた腕が、驟雨の腕を掴む。
「………あったかい」
「え?」
「あの時と、同じ手だ」
「何?」
 覚えているのか、と問う前に、驟雨の腕が引き寄せられ、頬が寄せられた。
「やっと………会えた」
 ふわりと、心底嬉しそうに微笑んだ翡翠の瞼がゆっくりと降りていき、驟雨の腕を掴んだまま、再び寝入ってしまう。
「っ!」
 笑顔など、見たのは何十年ぶりか。あの日以来、目にしたことなどなかった。
 あの日、以来………
 瞼の裏に甦りかける悪夢を振り払うように頭を左右に振り、驟雨は、はたと気づいた。
「う、動けん」
 腕を掴まれ、驟雨はその場から、動くことが出来なくなった。


 翡翠が寝返りを打ち、ようやく腕が離れたのを見て取り、運ぶのは断念して、一枚着物をかけてやり、驟雨は逃げた。
 食物に、余計な感情を向けるのは、得策ではないと気づいて。
「驟雨様」
「小峰か。何だ?」
 台盤所で酒瓶を二つ手に取った驟雨の後ろへ、音も気配もなく、小峰が立つ。
「差し出がましい物言いかとは思います。ですが、あの方を喰らうのは、おやめになった方がよいかと」
「如何してだ?」
 鋭く睨み付けても、小峰は怯む様子を見せない。
「あの方は、決して驟雨様を御厭いになるような方ではないと見受けられました。今まで来た者は、どんな者でも一目貴方を見て、悲鳴を上げた。ですが………」
 翡翠は、悲鳴を上げなかった。悲鳴を上げるどころか、殺していいとまで言い放ったのだ。
「黙れ」
「驟雨様………」
「貴様らの今の主は誰だ?」
「無論、驟雨様で御座います」
「ならば、俺のする事に口を差し挟むな!」
「………申し訳、御座いません」
 音もなく姿を消した小峰のいた場所へ、土瓶を投げつける。割れた土瓶の中に入っていた酒がぶちまけられ、板へと沁みていく。
「分かっている!あいつは………」
 翡翠は、厭いなどしないだろう。悲鳴を上げなかったという一点においても、それは理解できた。そして、寝ぼけていたとはいえ、先ほどの行動でも。
 しかし、だからこそ、如何にも出来ないのだ。
 驟雨は、喰いたいのだ。人間を。贄として此処へ来た、翡翠を。一度口にしたあの血の味は、易々と忘れられるものではない。
 それが、鬼としての本能として正しいのだと、十二分に承知していたから。


 それから数日、全く翡翠は驟雨と顔を合わせない日々が続いた。屋敷の何処をうろついても、全く出会うことがないのだ。小峰や小牧に聞いても、知らないと首を左右に振られるばかりで。
 相変わらず、高価な白米の出る食事を食べ終わり、翡翠は箸を置いた。
「あの」
「はい?」
 白湯を注いでいる小牧が振り返る。
「彼は、いつ僕を喰うんでしょうか?」
「は、い?」
「だって、喰われるために来たのに、こうしていつまでも生かしてもらうのは、申し訳ないです」
「そんな、ことは」
「白米は高い。魚だって野菜だって、毎日種類の違うものが出る。簡単なことではないはずです。お金だってかかる。太っている方が食いでがあるから、というのなら頑張って食べますけど、僕は元々食が細い方なので、あまり期待できないと思うんです。だから、もしも、まだ喰う気が起きないというのなら、他の事で何か、せめて食事のお礼ぐらいしないと」
「他の事、ですか?」
「ええ。僕は何もできないから、そうはいっても、これ、というものがないんですけど」
 翡翠はここ数日、そればかり考えていた。家事を手伝った方がいいかと小牧に声をかけても必要ないと言われ、庭の手入れでもと思い小峰に声をかければ断られ、此処へ来てからの翡翠は、本当に食べるか寝るかしかしていないのだ。
 そこへ、御簾を蹴上げて、驟雨が入ってきた。相変わらず、手には酒の入っていると思しい土瓶を持っているが、酔っている気配は微塵もない。
 その姿を見た小牧が、すっと音もなく部屋を出て、姿を消した。
「礼、だと?」
「はい。寝床も、食事も頂いています。何かしないと、罰が当たります」
「鬼に、礼をするというのか?」
「はい」
 相変わらず、白い狩衣を纏った姿は、何処までも綺麗だった。薄暗い室内の中でも、眼を見張るほどに。
「だったら………」
 驟雨は、空になった膳を蹴り上げ、翡翠の肩を掴み、床板へ押し付けた。
「女のように足を開いて見せろ」
 嫌がり、泣けばいい、と口端を上げた驟雨の考えは、すぐに砕ける。
「いいですよ」
「何?」
「こんな醜い体でいいのなら、幾らでもどうぞ」
「お前」
「女性の様に柔らかい体じゃないですけど、それなりに経験だけはあるので」
「お前、未婚だろう?」
「それが、何か?」
「それで、経験がある、だと?」
「はい。薬でも道具でも、何でも使って下さい。多少の物なら、慣れていますから」
「慣、れ?」
「ええ。貴族や僧侶というのは、そういうものが好きな方が多かったので」
 これは、何だ?この生き物は、本当に、人間か?死んだように、濁った瞳で微笑むものが、人間だと?
 頬へ伸びてきた翡翠の手を、反射的に弾いて、驟雨は立ち上がった。
「ふざけるなよ、貴様」
「え?」
「貴様、自分を何だと思っている!」
「道具です」
「何?」
「僕は、道具です。村の禍を受ける道具、貴族の気を引いて養父の薬を売るための道具、薬草の毒見をして、家事をこなす道具です」
 言いながら微笑む翡翠が、理解できなかった。どうして、こいつは、笑っていられるんだ、と。
 痛かったはずだ。苦しかったはずだ。あんな叢で一人、膝を抱えて泣くほどに。だからこそ、助けた。
 鬼だと蔑まれ、追い払われ、泣く術しか持たなかった幼かった自分に、重なって。
 苛立ち紛れに、持っていた酒瓶を床へ叩きつけ、驟雨は翡翠へ背を向け、入ってきた時と同様に御簾を蹴上げて、廊へと出た。
 生きて欲しかった。人に紛れて生きることのできない自分の代わりに。だから、あの時あの子供を、助けたのだ。
 だが、そうしたことが、翡翠の心を壊してしまったのだというのならば………
「喰うしか、ないのか!」
 全てを、なかったことに、してしまえるのならば………


 体を起こし、蹴上げられて散らばった膳を片づけながら、翡翠は微笑んだ。
「優しい、ひとだ」
 きっと、あの時、泣いていた自分の頭や頬を撫でてくれたのは………
「驟雨」
 優しい響きの名前だと思う。
 どうして、あんなに優しいひとが、鬼なのだろう。
 あのひとに喰われるのならば、こんなに嬉しいことは、ない。あの時、助けられた命でもって、恩を返すことが、出来るのだから。
「早く、食べてくれればいいのに」
 生きているだけで不幸を呼ぶ自分には、生きている意味も、生きていく場所も、ないのだから。


 それは、翡翠が驟雨の元へと来てから、十数日経った日のことだった。
 驟雨と顔を合わせないのはいつものことだが、小牧や小峰とも、顔を合すことがなかったのだ。その上、この屋敷へ来てから迷わずに書物の置かれた塗籠へ辿り着けたためしのなかった翡翠が、迷うことなく、塗籠へと辿りつけたのだ。
 違和感は、それだけではなかった。
 屋敷が、小さいのだ。
「部屋数が、いつもと違う?」
 屋敷が小さくなる、などと言う話は聞いたことがない。部屋数が減る、などと言う話もだ。だが、今翡翠が歩いていて、屋敷の様子がいつもと全く違うのは、明白だった。湯殿ですら、迷うことなく辿り着けてしまった。
 小牧や小峰を探そうかとも思ったが、入ったことのない部屋だらけなのだ。勝手に入り込むのは、まずいだろう。好きにしろ、とは言われているが、好き勝手にしていい、とは言われていないのだ。ここは、家主である驟雨の許可を得るべきだった。
 けれど、翡翠は、驟雨の寝起きしている部屋がどこにあるのかすら、知らないのだ。一室一室、見て回るわけにもいかない。
 途方に暮れ、夕刻、紅色が西へ走り、群青色から逃げる時刻、庭へと降りる階に腰を下ろした翡翠の耳に、物音が聞こえた。
 まるで、何か大きな物を、倒したような音だった。
 音のした方向へ足を進めると、几帳が御簾の下半分を千切るようにして、廊へと飛び出している。先ほどの音は、これが倒れた音のようだった。
 倒れた几帳を戻そうと、御簾を上げ、中を見て、室内の酷い有様に、翡翠は言葉を失った。
 散乱した着物、割れた鏡、真っ二つにされた机、割れた硯に千切られた紙。床には抜き放たれた刃と鞘が、無関係の方向に落ちている。それで切り裂いたのか、松の絵が描かれた襖には、無残にも、幾筋もの傷が走っている。
 夕刻になり、薄暗い室内を灯すためにつけられたのだろう燈台の炎が、ゆらゆらと揺れながら、濃い影をあちらこちらに作っている中に、更に黒く濃い影がある。
「あ、の………」
 炎の明かりを避けるように、暗く凝った闇の中にいるその影は、人の形を成していた。ならば、その影はこの屋敷にいるのだから、小峰か小牧か、驟雨しかいない。無意識の内に声をかけて伸ばした腕が、まるで握り潰そうとでも言うような力で、引き寄せられる。
 体を押さえつけられ、床に強かに打ちつけた背中の痛みに顔を顰め、咳き込む。身動きが取れない状態で呼吸を整える事に必死だった翡翠の眼前に、何時の間にか、刃の切っ先が向けられていた。
 殺される!と思った瞬間、その刃が、顔の横で白刃を煌めかせ、床に突き刺さった。
「何故、歩き回っている!」
 驟雨の怒号が響き、部屋にある物を振動させる。
 その、眼の前にいる、刀を持った驟雨の姿に、翡翠は呆然とした。
 炎の橙に照らされても尚黒い、髪と瞳。白い肌は変わらずとも、頭の上にあったはずの乳白色の角は、消えている。
「その、姿………如、何して?」
 人間、だった。
 鬼の時の神々しく、禍々しいまでの白さはなく、闇のような黒を纏った、人の姿をした驟雨が、そこにはいた。
「何故………お前は、人間なんだ?」
 苦しそうに、吐き出された言葉。
「何故、お前は姿を一つしか持たない?」
 問うことすら無駄だと感じているように、答えなど返ってくるはずもないと、絶望しているように、驟雨は淡々と言葉を紡ぎ、翡翠の瞳を、虚ろな光を宿した黒瞳で覗き込む。
「何故………」
 顔が歪み、泣き出すのかと思った瞬間、翡翠の横にあった刀が抜かれ、それが、眼前で一振りされる。
 大きな音を立てて、その刀は燈台を切り裂いた。そして、それと共に、火が消え、室内が暗くなる。
 だが、暫くすると、御簾の間から零れ入ってくる月の明かりだけで、室内の物の輪郭が見えるように、翡翠の眼は慣れていった。いつの間にか、夜になっていたのだろう。千切れた御簾の向こう、木々の合間に、小さく、満月が見えた。
「俺は、人ではない。鬼だ」
 低く発せられた声が、室内に響くことなく床へと落ちる。
 薄く差し込む月明かりを弾いた刃が、驟雨の黒い瞳を映す。
「だのに、この姿は何だ?俺は、貴様らとは違う。同じ人を殺し、虐げる貴様らとは!」
 心底嫌悪するように吐き出された言葉に、翡翠は眼を閉じ、数瞬の後、静かに開いた。
「でも、今の貴方は、人です」
「違う」
「いいえ。人の、姿です」
「違う!」
 絞り出されるような声。それに相対するように、翡翠も声を絞り出す。
「僕が、どんなに願っても手に入れる事の出来ない、人の姿だ」
「っ………」
 その時、今宵初めて、目の前にいるのが翡翠だと気がついたように、驟雨の黒瞳が、翡翠の瞳を覗き込む。
「僕は、貴方が羨ましい」
「何?」
 握っていた刃を下ろし、音を立てずに、床へ置く。
 見た事のないものを見るように、驟雨は手を伸ばし、翡翠に触れようとする。
「何故、その姿に貴方がなるのかは、知りません。でも、今の貴方は誰より人らしく、黒い髪と瞳を持っている。僕には、絶対に手に入れることが出来ない」
 この瞳の色は、人々に恐怖を齎すことしかしない。好まれる事はない。好まれるとしても、珍妙だという理由で、好まれるのだ。まるで、鑑賞物のように………
「お前………」
「今の貴方なら、何の不便を感じることもなく、村へと、町へと溶け込めるでしょう。けれど、僕は、そうはいかない。どんなに願っても、この瞳はこの瞳のままで、決して変えることなど、できはしない」  傍らに置かれた、驟雨の手を離れた刀に触れ、柄を持つ。持ったことなど一度もない刀に、翡翠の手は震えた。
「僕は、この眼が嫌いです。この眼の色の名前だと言う、僕の名前も」
 握った柄を、暗闇の中探り当てた驟雨の手の中へと、握らせる。
「おい?」
「僕を、殺してください」
「っ!」
「僕を殺して、喰べてください」
 嫌悪する。こんな自分を。
 卑屈で、矮小で、何時も、人の顔色ばかりを窺って暮らしていた。何もかも諦めて、感じないようにする事で、如何にかこれまでを生きてきた。
 けれど、そんな生にも、もう、飽きた。
 何処へ行っても、受け入れられることはない。村でも、町でも、無論、此処でも………
「自分から、此処へ来ると言ったんです。僕がいなくなれば、村の人達は嬉しがる。厄介が一つ、なくなるんですから。薬師なんて、毒も薬も扱う奇妙な人間、村の中では、受け入れられない」
そうだ。分かっていたのだ。どれだけ村人のふりをしようとも、誰も、村人は自分を受け入れてなどくれないことを。ただ、目を背けていただけなのだ。その事実から。
一人で生きて行けるほど強くもなくて、一人になる事が怖くて、どうにか村の中に居続けようとした。そんな自分を、認めたくなどなかった。けれど、知っていた。気づいてはいたのだ。
そして、きっと、村人はずっと、思っていたはずなのだ。
この厄介者がいなくなってくれれば、と。
「僕を殺して喰らえば、貴方の空腹は満たされる。僕ももう、村の事で一喜一憂せずにすむ。両方の利害が一致しています。丁度いいでしょう?」
 このまま、何処かへ行くことも出来ず、何処かへ行っても変わることのない周囲の目。ならば、いっそ、此処でこの鬼に食われ、その体の内で、血となり、肉となり、彼を形成するものの一つとなる方が、余程、自分と言う存在に、意義があるのではないだろうか。
 そもそも、その為に、呼び寄せられたのだから………
 細い月明かりの中でも、十分に分かる、翡翠の肌の白さと、この国の人間では持ち得ない、瞳の色。
 だが、微笑みながら自分を殺せと言う翡翠に、驟雨は唇を噛む。
「巫山戯るな………」
 分からない。分かるものか。何を思い、考えて、微笑みながら自分を殺せなどと、言えるのか。
 どこからこんな感情が湧き上がってくるのか、自身で見当もつかぬまま、ただ、せり上がってくる感情のままに、声を荒げる。
「巫山戯るなよ、貴様!」
 気紛れとは言え、一度は助けた命なのだ。自分の、この手で。あの幼い、傷だらけで涙を流していた子供の口から、何故、こんな言葉を聞かねばならない?
 生きて欲しいと願った子供を、殺して、喰わなければならないのか?
 そうだ。生きて欲しかった。死んでほしくなどなかった。だから、助けた。翡翠の血を口にした時も、助けた子供だと気づいたからこそ、咄嗟に怪我を治してしまった。
「っ………」
 嗚呼。一度助けた命は、殺せない………喰らうことなど、できは、しない。
 緩慢な動きで、落ちていた鞘を拾い、握らされた刀を、納める。
 きっと、同じなのだ。
 人の世界には、入れぬ存在。
 鬼である、驟雨も。この国の人としては不完全な容姿の、翡翠も。
 ならば。
「此処で暮らせ、翡翠」
「………え?」
 驚愕に見開かれる、宝石のような瞳。
 ………そうだ。この瞳には、こんな感情的な色が、よく似合う。
 あんな、何もかもを諦めた、濁った瞳よりも。
 刀を手放した手で、翡翠の頬に触れる。
「俺は、お前を喰わん。死なせもせん。が、だからといって村へ帰すことも、無論できん相談だ。だから、此処で生きろ」
 もしも村へ帰したとしても、翡翠は受け入れられる事はないだろう。村は、閉鎖的な空間なのだ。余所者は、受け入れない。
 長き時を生きてきた驟雨とて、翡翠のような瞳の色をした人間は、他に、見た事がないのだから。
 見開かれていく翡翠の瞳が、人らしく、戸惑う。
「何故、ですか?」
「問うな。答えなどない」
「でも、僕は人間です。貴方の嫌う、人間ですよ?貴方は、人が嫌いなのでしょう?」
「ああ。それは変わらん」
「じゃあ、如何して………」
「問うなと言った。同じ事を、二度も言わせるな」
 驟雨は、呆然としている翡翠の髪を撫で、眼の淵へと触れる。
 この眼が、一度として、自分の姿を見て、恐怖に慄いたことが、あったろうか。一度として、憎悪を湛えたことが、あったろうか。
「あの?」
「お前は、俺を怖がらんのだな………」
 そうだ。眼を、背けていただけだ。人と言うものは須らく、鬼や魑魅魍魎と呼ばれる、影に潜む存在を恐れ、憎むものなのだと。陽の当たる場所で生きる人間は、陰に生きる者達を認める事も、受け入れることも、決してないのだと、頑なに信じ、それ以外の者などありえないのだと。
 だが、翡翠は違う。翡翠は、鬼である驟雨を怖がることなく、変化する姿すら、見た途端悲鳴を上げるようなことも、しなかった。
 もう、それだけで、いいのではないか。
「………あの、驟雨?」
 こんなにも、優しく自分の名を呼ぶ声など幾久しく、聞いていなかった。
 あの時、以来。
 刀を手放した手で翡翠の腕を掴み、身体を起させる。
 驟雨は、床に散らばっていた狩衣の中の、汚れても裂かれてもいない一枚を拾い、翡翠の薄い肩へとかけてやり、立たせた。
「あの、僕のこと、食べないんですか?」
「喰わん。此処で暮らせと言っただろう?これから共に暮らす者を、喰って如何する?」
「此処で、暮らす?生きていても、いいってことですか?」
「そう言った」
「っ………初めてです。生きていていい、って言われたの」
 眼を丸くしていた翡翠が、満面の笑みを浮かべる。それを見た驟雨は、ぎこちなく、けれど穏やかに、微笑んだ。











2013/8/3初出