それは、偶然だった。 けれど、必然だった。 きっと、彼が望んだ。 そして、呼び寄せた。 だから、死んだのだ。 クラス委員と言う損な役割柄、仕方ない事だとは思っていたが、大して話したこともないクラスメイトが交通事故に遭ったため、多忙な教師に代わり、授業内容のプリント等を届けるという行動に、不幸を感じずにはいられない。それこそ、交通事故に遭ったクラスメイトよりも。 話したことがない、と言うことは、イコール、話題がないと言うことだ。溜息をつきたくなるのをどうにか堪え、もう一人のクラス委員である女子の、如才ない受け答えを聞きながら、用事があると嘘をつき、病室を出てきたことは、決して罪とは言えないだろう。 沈黙に、耐えられなかったのだから。 リノリウムの廊下を行きかうのは、白い制服に身を包んだ看護士や医師、点滴の管を腕につけたまま歩き回る患者、売店で雑誌を購入した見舞い客など。 時折擦れ違う彼らの顔は、皆同じに見え、どうと言う感慨も思わない。ただ、ああ、足を怪我したのか、腕が悪いのか…と、漠然と思うだけだ。 それ以上でも、以下でもない。 人の表情、思惑等が、全て上滑りしていくのだ。それらを、受け止める事が出来ない。 階段とエレベーター。どちらで病院を出るか…考えるまでもない。階段だ。エレベーターは、見も知らぬ他人と一つの閉鎖した空間に押し込められる、恐ろしい物体だ。狭いところは好きだが、それは、一人でいればこそよいのだ。誰かがいては、意味がない。 エレベーターを通り過ぎ、階段に一歩を踏み出そうとして、振り返った。 音。 楽器の音でもなく、歌でもなく、それは、音だった。 どこから聞こえてくるのか…途切れ途切れに、掠れるように響くそれに耳を澄まし、階段へ出そうとしていた足を、引き返す。 そして、階下ではなく、階上への階段へ一歩を踏み出した。 音。音が、呼んでいる。 曇り玻璃のはめ込まれた、アルミ製の扉のドアノブに手をかけ、回す。 音もなく開いたそこは、柔らかな風の吹く屋上。 空が、青かった。雲が、白かった。眼に、焼きつくほどに。 そして、それに負けず劣らず、白い姿が、目の先にあった。 屋上へ通じる扉へと背を向けた、白い姿。車椅子に腰を下ろし、少し首を上へ向けている。 「誰?」 軽やかな声が、直接に頭へ響いたように感じた。すぐ側にいるわけではないのに、本当にすぐ真横、真正面…それほど近く、耳元で聞こえるほど、その声ははっきりと聞こえたのだ。 「あ…邪魔、かな?」 「いいや」 ほっと息をつき、その時初めて、自分はそれまで息を詰めていたのだと知り、苦笑しながら車椅子へと近づく。 白い髪、白い衣服、白い肌、そして、青い左の瞳。右目には、眼帯。足は悪いようには見えないが、車椅子に乗っていると言うことは、悪いのだろう。首筋、手首等にも包帯が巻かれ、満身創痍なのだと気づく。事故にでも遭ったのだろうか。 「ここで、何を?」 「聴いていたんだ」 「聴いていた?」 ウォークマンを持っているようには見えない。何を、聴いていたと言うのだろう。 「自然の、音を」 「自然の音?」 「葉の擦れる音、雲の流れる音、風の吹く音…様々を」 「聴こえるのか?」 「聴こえる。耳を澄ませば。そして、それを奏でることが出来る」 「奏で、る?」 「そう……君の名前は?」 空をじっと見詰めていた左の青い瞳が、静かに向けられる。 まるで、水を凝縮させたかのように、美しく生々しい、瞳。 「調川(しらかわ)碧(あお)」 「美しい名前だね」 「…それは、どうも。君は?」 「神」 「え?」 「神と書いて、しんと読むんだ。神で、いいよ、碧」 「あ、ああ。君は、入院患者なのか?」 「そう。ある場所から、堕ちてね」 「それで、満身創痍なのか」 「ああ。あちこち怪我して、かなり痛かったよ」 全く痛そうな顔をせずに、淡々と痛かったと言う神の瞳が動き、顔が上へ向く。 「空は、青いかい?」 「え?」 「まだ、うまく見えていなくてね。ぼんやりとなら、見える」 「右目だけじゃないのか?」 「ああ。左目は、昨日眼帯が取れた」 さら、っと、こともなげに言う神に、少し薄ら寒さを感じながら、青いよ、と言うと、彼は微笑んだ。 「そうか」 心底、嬉しそうに。 それからの碧は、クラスメイトの見舞いのためではなく、神の見舞いのために、病院へ足を運んだ。 神は、大抵屋上に居た。だから、碧は聞かなかった。神が内科なのか外科なのか…何処の科に入院しているのかを、怪我の治る見込みは、どれぐらいかかるのかを。だから、病室へ訪れたこともなかった。 それを、不思議になど思わなかった。それが、当たり前なのだと思った。 白くて狭い、箱のような病室よりも、空のよく見える、屋上の方が彼にはよく似合う、と。 彼は、とても不思議な少年だった。年の頃は碧と大して変わらないように見えるのに、言うことがとても大人びていたのだ。 「君は、神を信じる?」 相変わらず取れることのない右目の眼帯。見えているのかいないのか、よく分からない左目を青い空へと向けて、言う。 「いや…」 不思議な事を聞く。碧は、この国に生まれ育った者の典型で、宗教ごとには関心が薄かった。 「そうか」 「そう言う君は、どうなんだ?」 「僕?神の存在は信じている。けれど、それが真実神であるかは、わからない」 信じているのに分からないと言うのは、聞いているこちらが混乱するような事を言う…と、碧は首を傾げた。 「今、この世界で、神と呼ばれる存在は、確かに存在している。けれど、それが真実、神と呼ばれる存在に値するほどの存在なのかは、分からないと言うことだよ」 「難しいな」 「その存在を、本当に神と呼んでいいのか…もしかすると、悪魔かもしれない。もしかすると、何の力もない、人間と大差ない存在なのかもしれない…誰も、見たことがないのに、何故それが神だと分かるんだ?」 「確かに」 「それが神であると言う定義は、一体何処にあるんだろう。僕には、それが分からないんだ」 空へ向けられていた顔が、動く。そして、固いコンクリートの屋上の床を見る。 「神にしてみれば、そんな称号、人間に無理矢理与えられた、不本意なものかもしれないじゃないか。人間の勝手な、欲と無知で」 見えているのか、いないのか…瞳は動かずに、真っ直ぐにコンクリートから、再び空へと視線だけを動かす。 「君は、いつも、そんなことを考えているのか?」 「いつもじゃないよ。ふとした時に、自分が今存在するこの地上を、足の下にある地面を、疑う時があるだけだ」 ただ、ゆらゆらと、不安定な場所に立っている気がして、仕方がないのだと言った。 その不安は、確かに碧も抱いていたものだった。 自分は、本当にここにいていいのか。ここが本当に自分の居場所なのか。いつか、自分の足元がぽっかりと抉れて穴が開き、闇へ、地の底へと、引きずられて堕とされるのではないかと。 そんな不安を、抱いていた。それが、自分だけではないのかと、碧は不思議に思うと同時に、嬉しくもあった。 彼は…神は、自分と同じ様な、“不安”を抱えた、人間なのだと。 それは、突然の雨だった。 黒に近い曇天から落ちてくる雨は、まるで汚れているように見えて、なるべく当たることのないようにと思いながら、傘を差し、病院へと急いだ。 まさか、こんな天気の日に、屋上へ出ていることはないだろう。だからといって、彼がどこに入院しているのか、碧は知らない。 だが、その日は、受付で声をかけられた。 「貴方、いつも神君と屋上にいた子よね?」 「はい」 看護士の一人が、翳った表情で近づいてきた。 予感があった。その、表情に。 嫌な事が起こる、予感が。 「今日も、お見舞いに?」 「…ええ」 「そう…」 「何ですか?」 聞いてはいけない事だと分かっているのに先を促してしまうのは、人の悪い癖だ。 そして、碧は勿論、後悔した。 「彼、さっき、亡くなったわ」 雨が降る。まるで、神の死を嘆いてでもいるように。 碧には、看護士の話は、不可思議な事ばかりだった。 『彼、眼も両方見えていなかったし、足も動かないし、口も利けなかったから、横にいても退屈だったのではない?』 …口が利けない?そんな馬鹿な。碧は、確かに、神と毎日会話をしていたのに。 『でも、貴方が来た後は、何だか彼、楽しそうで…。顔のほとんどが傷だらけで、包帯だらけだったから、表情なんか、あまり分からなかったのだけれど』 …神は、とても綺麗な顔をしていた。それこそ、美少年とでも言えるような。傷は確かにあったのかもしれないが、それも、包帯をつけている眼の部分だけだった。 『そう。彼から、預かっているものがあるのよ。貴方に、って』 茶色い封筒が、一つ。厚みのあるそれを、まだ雨の降り続けている屋上の隅、屋根のある場所で開く。 中には、一枚のカード。そして、白い、白い… 骨。 入っていたカードを開くと、綺麗な字で、こう書かれていた。 『神は、死んだ』 碧は、理解した。全てを。 そう。彼は、空から落ちてきたのだ。天から。人から与えられた称号に不満を持ち、自分は神などではないと、証明するために、堕天したのだ。 ならば、これは、神の骨だろう。 この世に唯一真実の、神の骨。神と名乗った少年の、骨だ。 手の中で握り締めれば、温もりが伝わってくる。それは決して、彼の熱などではなく、ただ、自分の熱が骨に移っただけのことだったけれど。それでも、碧は満足だった。 彼は、何故自分を選んだのだろう。これを託す人間に、何故、自分を……… 雨が、空から落ちる音、雨が、地面を叩く音、雨が、木々を揺らす音。それらが、聞こえる。 「ああ、神…君の、音だ。君の、鼓動だ」 世界の全てに君があり、世界の全てが君に収斂する。 偶然で、必然で。 彼は、選んだ。 己として、死ぬ事を。 かみではなく… しんとして、しぬことを。 それは、ふあんていなこのせかいでいきていくための、さいごのしゅだん。 ふたしかなあしもとをかっことしたものにするための。 だから… きみは、きみだったのだ。 ほかの、だれでもなく。 キミは、キミ。 ボクは、ボク。 それ以上でも、以下でも、ない。 世界は、ただ、めぐる。 ![]() 彼は、確かに恋をしたのです。 音に、声に、彼に、自然に。 美しいものは、確かにあると思うのです。 例え、他人が如何思おうと、己がそうだと思うのならば。 世界と自分との繋がりは、自分と言う存在の証明のうえに成り立つのです。 それでもただ、世界は巡るだけなのですから。 2007/8/18初出 |