*天狗の杜*


 一つ、息を吸い込めば、緑の香りと新鮮な空気が肺を満たし、体中の不浄を流し清めてくれるような場所だった。
 そんな祖母の田舎へ行くのは、毎年夏。蜩の鳴く夕暮れ、山の端へ隠れる夕陽が染めてゆく稜線が、都会で見る高層ビルを染める夕陽とは違うように見えた。
 祖母は、行くと必ず、こう言った。
「森の中へ入ってはいけないよ。これは、絶対に守るんだよ。そうでないと、天狗に浚われてしまうからね」
 それが、祖母の口癖だった。


 白い布。白い布団。焼けてかさつく畳。ささくれたような、畳の目。静かに音もなく、微かな風にさえその体を捩る線香の煙は細く揺れ、天井へと昇る前に、その姿を消してしまう。
 これでは、祖母の魂が、空へと昇れないではないか。もっと、障子を開けて、風通しを浴してやらなくては、外へと出て行けぬのではないか…そうは思っても、僕に口を出す権利など、ない。ただ、静かに、骸となった祖母の側に、正座しているだけだ。
 通夜を取り仕切った父母は、手伝いをしてくれた村の人々への礼も兼ねて、挨拶に回っている。今、この静謐な場所には、僕と祖母だけだ。けれど、大人しくしていなさい、と言われたからには、何もしてはいけないのだ。それは、イコール、余計な事をするな、と言う意味だろう。
 ああ…明日、葬式が終わり、納骨が済んでしまえば、もう、祖母の顔は見ることが出来なくなる。少し、その顔にかかっている白い布を、退かす位は許されるだろうか。布団を頭から被ると苦しいよ、と、よく窘められたものだ。きっと、苦しいと思っているに違いない。
 手を、伸ばす。白い布に、指先が、触れ、そして、そっと、ずらす…それだけで、いいのだ。それだけで…
 遠くで、古い木戸が、大きな音を立てて開いた。家中に響く、玄関の引き戸の音に、僕は手を、引いた。


 雨。祖母が好きだった、雨だ。きっと、この雨に連れられて、祖母の魂は、空へ昇れるのだろう。そして、祖母の白く小さな骨達は、無粋な壺に納められ、土中へと埋められる。けれど、きっと、この雨が、その淋しさを紛らわし、慰めてくれるだろう。
 ようやく終わった一通りの儀式に、肩の荷が下りたとばかり、父母はお茶を啜っている。そして、この、来るのだけで一日かかってしまう田舎の家を、如何するかの算段を始めた。
 ああ、嫌だ…どうして、こんな、お金の話ばかり…何故、祖母の死を、悼むことが出来ないのだろう。大往生だと、確かにそれは喜ばしいことかもしれない。けれど、それでも祖母は、亡くなったのだから…
 真新しい仏壇を見詰めていた。新しい木の匂いのするそれは、あまりに、似つかわしくなかった。この、古く温かい、この家には。
 だから、家を出た。祖母の愛用していた突っ掛けを履き、霧雨に変わりつつあった、曇天と夕焼けの中へと。


 空が、光る。白く細く。そして、音。とても近い。まるで、落ちてきそうな程の、轟音。だが、不思議と怖いとは、感じない。
 雨が、また強くなった。傘は、ない。何処かで、雨宿りをしなくては、ずぶ濡れになる…いや、もう、なっている。これ以上濡れても、あまり、変わりはしないだろう。ならばいっそのこと、祖母を連れて行く雨と雷に、触れたかった。
 走る。森の中を。場所も分からずに。雨と雷が、追ってくる。
 赤、と、白。…赤?森の、中に?
 足を止める。何を、自分の目は見たのだろうか?何かの花だろうか?それならば、白い花を、祖母の墓前に供えてあげよう。白は、死者の色だから。
 花…ではない。
 それは、赤い、顔。そして、白い、花のような、腕。
 …天狗。いや、あれは、ただの天狗の面だ。一体、誰の、何の、悪戯だろう。
 いや、一体、誰の、どんな、悪戯だって構わない。その白い手は、僕を、招き寄せている。
 腕を、伸ばす。きっと、届く。だが、僕の手が届く前に、その手は、僕の手首を、掴んだ。温かかった。
 ああ、良かった…会えた………
「おかえり」
 優しい、言葉だった。







天狗の正体は、誰にも分かりません。それは勿論、“僕”にも。
けれど、優しく懐かしいその声は、森の声。
その温かさは、包み込む木々の優しさ。
きっと、そんな森がどこかに、あるのです。
天狗の住む、杜が。




2007/8/27初出