*Secret garden〜秘密の石庭〜*




 雪が降る。ひらひらと。はらはらと。
 走る。走る。ひた走る。
 ただ、ただ、足を前へと出す。何処へ行くとも、何処まで行けるとも知らず、ただ走るのみ。
 少年は、それしか知らなかった。


 世は混沌。悲しみと憎しみが連鎖し、誰もが引き返す道を模索する事も、歩んできた血濡れの道を振り返ることもしない時代。
 空を覆うは、灰黒の雲。
 空を舞うは、鋼鉄の鳥。
 飛び交うは、鉛の銃弾。
 流れ出るは、命萌ゆ血。
 失われるは、愛しき命。
 何の道理持ちて戦うか。
 既に解らぬその根源。けれど、争う事をやめられぬ人々を嘆き、悲しみ、涙を流す事も出来ずに佇むだけの“彼”は、確かにそこにいた。
 ひっそりと、誰に知られる事なく、遠くから聞こえる轟音と、それに掻き消されてしまう人々の嘆く声と命の灯奪われる悲鳴を、聞き漏らさぬようにと、耳を澄まそうとする、“彼”は、確かに。


 少年は走る。ひたすらに走る。
 意味など知らない。ただ、それだけしか出来ることはない。それ以外に知っている事がない。
 血に赤黒く汚れた白い指先が、遠く、遠くを震えながら指差し、まるで強く口紅を塗りつけたかのように赤黒い唇が、震える声を絞り出したから。
『遠くへ…!さあ、早く!走って!』
 少年は、それしか知らない。
 周囲の風景など、視界には入らない。
 早く、早く、遠くへ、走る。
 それだけだった。


 降る、降る、雪が。
 降り積もる雪を払いのけることもせずにただ、“彼”はそこにいた。静かに遠くを見据えて。
 草木が燃やされ、花が吹き飛ばされ、大地が抉られ、屠られる人々の命を嘆きながら、ただじっと、見つめていた。


 花が、咲き乱れる。雪が、ひらひらと、はらはらと、降っているのに。
 白、黄、赤、桃、紫…溢れる色の洪水の中で、少年は初めて、足を止めた。
 寒さに悴んだ手と足は既に感覚を失い、ふらりと、まるで吸い寄せられるように、目の前に広がる花園へと足を進める。
 温かい………
 まるで、雪が降ってきた事など嘘のような春の陽気に、少年は目を見張り、耳を澄まして目を凝らす。
 ひらり、と、目の前を、白い蝶が舞った。その後を追うように、黄色い蝶が、また、ひらり。
 蝶々………小さくそう呟いて、少年はそれを追う。
 足元に咲く花々は、皆、少年に道を譲るように、恥じらいながらその顔を背け、ゆるりと肢体である茎や葉を動かす。
 ひらり、ひらり、ゆるり、ゆらり。
 ぱた、ぱた、ぱた、と、かけていた少年の足が、止まる。
「こんにちは」
 まるで、鈴の音が響くような声が、少年の前から聞こえ、少年は視線をぐるりと廻らした。そして、見つける。
 花園の中に、一人佇む青年を。
 少年よりも幾許か年上に見える青年は、青い瞳を少年に向けている。
「こんにちは」
 もう一度言われ、少年は口を開く。
「こ、こんにちは」
「良い、日和だね」
「あ、はい。え、と…ごめんなさい!」
 少年は、勢い込んで頭を下げた。だが、青年はわけが解らないと言うような視線で少年を見る。
「どうして、謝るんだい?」
「だって、勝手に入ってしまったから」
「気にしなくて、よいよ。別に、ここは僕の庭と言うわけではないから」
「え、と、じゃあ………」
「もう、持ち主はいないんだ」
「………もしかして………?」
「うん。大事な僕の御主人様は、この戦争で何処かへと行ってしまったんだ。生きていらっしゃると、良いのだけれど」
「そ、うですか………」
「君は?」
「僕は………」
 僕は、走っていたんです。
 如何して?
 だって、そう言われたから。
 誰に?
 母さんに。
 何故?
 遠くへって、早くって、走って、って。
 君を、助けようとしてくれたんだね。
 多分。
 大変だったろう?辛かっただろう?お腹は空いていないかい?
 空いてないです。大変でもないし、辛くもないです。だって、皆、今は大変だし、辛いんだから。
 でも、会いたいのだろう?僕は、会いたいよ、とても。
 でも、今は皆が大変で、辛いんだから、泣き言をいっちゃいけないんです。
 誰かに、そう言われたの?
 皆が、そう言っています。
 それでも、君の大変さも、辛さも、君以外の皆と、必ず同じと言うわけではないのだろう?
 皆、同じです。
 そう………
 御主人様に、会いたいんですか?
 会いたいよ。とても、とても。元気な御姿を確かめられれば、それでいいんだ。それだけでいいんだよ。
 会えると、いいですね。
 そうだね。会えると良いね。
 ………皆が大変で、皆が辛くて、泣いちゃいけない、んだけど………
 ん?
 ………僕も、会いたい………
 誰に?
 っ………お母さんっ………
 お母さんに、会いたいんだね。
 うん。
 君はまだ、小さい。そう思うことは、当たり前のことだよ。皆が辛くて大変でも、君がそう思うことは、罪ではないよ。
 会い、たい………
 うん。
 会いたい、会いたいよ、お母さんっ………
「辛かったわね」
「っ!お母さん!」
「ごめんね。一人にして」
「お母さん!お母さん!お母さん!」
「もう、大丈夫。もう、一人にしないから」
「うん。うんっ」
「ずっと、一緒だからね」
「うん!」


 雪が降る。ひらひらと。はらはらと。止め処なく。地上全てを、真白き雪が、悲しみを埋めるように覆いつくす。
 柔らかな土の上、柔らかな雪の褥。
 優美な羽の欠けた天使、優しき腕のない女神、大地を踏みしめる雄々しき足を失った男神、その只中で、優美な羽を背に広げ、優しき腕を掲げ、雄々しき足で大地を踏みしめながらも傾いた、青年のその足元に。
 横たわる、一人の少年。
 どれほどの時間、そうしてそこに横たわっているのか………
 だが、既に色を失った顔と、奏でられない鼓動と、その身体に降り積もった雪を見れば容易と、想像が出来よう………
 けれど、少年の目許は柔らかく、その口元には笑みが浮かび、満足そうに目を閉じている。
 ただ、それを見下ろすかのように傾いた青年の瞳だけが、悲しげに翳っている。
 決して開かぬ、決して動かぬ灰黒の空に似た色の彼の眼から、その頬を、滑り落ちるように流れた雫は、果たして………


 何故、如何して………
 奪い合うだけの命なら………
 殺め合うだけの命なら………
 その身に命など、魂など必要ないだろう。
 死した一人の少年の命。零れ落ちたこの命を、せめてこの冷たい石造りの手で、掬うことが出来たのならば………
 我が創造主よ………
 何故、何故、決して温もる事のないこの身に、“心”などを宿し賜うたか。
 我が創造主よ………
 人に在りしはずの命と魂、そして“心”の在るべき姿を、何故、教えては下さらなかったか………
 すまない。すまない。
 せめて、この身が、人であったのならば、その温もりで、君を温めることも、出来ただろうに。
 せめて、この身が………


 雪が、降る。
 ひらり。
 はらり。
 既に亡き命を、埋めるように。







戦争です。
あまり、多くを語りません。
行間とか、言葉の感じとか、読み取ってみてください。
真に罪深きは、一体何者か………
本当は答えなんて、一生出ないのかもしれません。




2007/12/15初出