* 海よりも深く、溺れるように 9 *


 それでもなお、独歩は最初抵抗した。
 独歩のシャツのボタンを外そうと左馬刻が手をかけると、慌てたように抵抗したのだ。流石に頭にきた左馬刻は、そのまま一発独歩の頭を殴ってやろうかと思ったくらいだ。けれど、次の一言で拳を仕舞った。
「し、したこと、ない」
「は?マジか?」
「し、仕方ないだろ!今まで、縁がなかったんだ」
 Ωであることに少なからず劣等感を覚え、Ωとして機能しない自身の体を知ってまた劣等感を覚え、その二重の劣等感を抱えたまま大人になる過程で、性的な部分から眼を逸らし続けて生きてきた独歩は、思春期に抱く性行為への興味と、無縁に過ごしてきたのだ。
 いや、興味を抱いてはいけないと思った。
「ちょっ、笑うなよ!」
 肩を震わせている左馬刻に、馬鹿にされたと感じた独歩は、拳を握った右手を振り上げた。だが、その手はいとも簡単に掴まれて、左馬刻の口元に運ばれる。
「俺は別にそういうの気にしねぇ方だが、てめぇのΩが誰の手つきにもなってねぇってのは、気分がいいぜ」
 Ωとして生まれた者の大多数が、成人を迎える年齢の前後までに、性行為を一度は済ましてしまうと言われる。その一つの要因が、コントロールし切れない発情期にある。そのせいで望まない性行為を強要されたり、そうなるならばいっそ、番でなくともその時好きな相手と、と経験してしまうのだ。
 独歩の場合、その発情期がなかった。生殖機能がないせいか、欲も薄かった。Ωであると知られる事もなかったため、殊更疎いままで生活出来たのだ。
「安心しろ。わけわかんなくなる位、気持ちよくしてやる」
 髪の一筋から爪先まで、と考えたことを現実に出来る、と左馬刻は掴んだ独歩の手首の内側、日の当たりにくい白い肌に、赤い痕が残るほど強く、吸い付いた。


 時計を見れば、既に日曜の夜中、月曜へ日付が変わろうかという時刻だ。一つ息をついて頭を掻き、煙草とライターを手に取る。
 手加減はしていたはずだが、途中から独歩の喉は、声らしい声を発していなかった。
 汗で張り付いた赤い髪を撫でれば、うなじには何度も左馬刻が噛みついた痕が残る。
 こんなに噛んだか?と、自覚のないまま、ベッドから降りる。流石に喉が渇いて、台所へ行き、欠伸を噛み殺しながら冷蔵庫を開ける。水を二本取り出してリビングを見れば、放り出したままのスマホが光っていた。
 ペットボトルのキャップを開けて水を半分ほど飲み、スマホの画面を見れば、何件かの着信。その中の一つへ折り返しに通話ボタンを押せば、ツーコールほどで相手が出る。
『お前、電話に出ねぇってのはどういうことだ!押しつけたのはどこのどいつだ!』
「あん?何の話だ?」
『薬と一緒に押しつけてきた男だよ!』
「ああ、そいつか。勾留終わりか?」
『後三時間、ってとこか』
「若いのに行かせる。渡せ」
『どうするつもりだ?』
「沈める。人のもんに手ぇ出そうとしたんだ。報いは受けさせねぇとな」
『………殺すなよ。後が面倒だからな』
「しねぇよ」
 そこまではしない。ただ、二度と顔を見せられない程度にはするつもりだった。
 銃兎との通話を切り、部下へ三時間後に警察署へ行って男を引き取り、事務所につめさせておくように伝える。
 そのまま、連絡をしておくべきだろう相手の番号を呼び出した。夜中だが、起きているだろうことを、見越して。
『こんばんは』
「悪ぃな、先生、こんな時間に」
『いいえ。大丈夫ですよ。あ。何日か前に連絡をくれましたね?』
「いや、そん時とは全く別の話だ」
『何でしょう?』
 寂雷は医者だ。その上、麻天狼のリーダーでもある。話は通しておくべきだった。
「先生んとこのリーマン、貰うぜ」
『どういう、意味でしょう?』
「番にした」
『………えぇ、と、それは、独歩君の了承の上で、両者の合意の上、でしょうか?』
「一応な。本人は番になれないって思い込んでるみたいだが」
『そう、ですね。医学的に………いえ、この場合それは後でしょうか』
「ははっ、先生が戸惑ってるのも珍しいな」
『独歩君は私の患者です。彼の体のことは承知していますから………左馬刻君、それを分かった上で、と言うことですね?』
「ああ」
『分かりました。詳しい話はまた後日』
 根掘り葉掘り聞かれるのは困るが、寂雷の話というのは、徹底して医学的な話に尽きるのだろう。野暮な詮索をするような性格ではないのは知っている。
 通話を切り、ふと思い出して、独歩の鞄の中から彼の携帯電話を取り出す。
 灰皿を引き寄せて煙草に火を点け、一吸いして画面を見れば、十分置きかよ!と言いたいほどの頻度で、電話がかかってきている。
 こっちにも連絡をしておくべきか、と考えていると、再び電話が鳴る。持ち主は眠ったままだ。仕方なしに通話ボタンを押せば、男にしては高めの声が響いた。
「うるせーよ!」
『何でヤクザさんが独歩の携帯に出るの!?』
「ヤクザにさんづけするんじゃねぇよ!」
 他に言い方あるだろうが!と思いつつ、離していた耳を携帯電話に近づける。
『ちょっ、独歩に何もしてないよね!?』
「した」
『えぇええええ!?何、それ?ちょっと、独歩ちん出してよ!』
「今起きられるわけねぇだろ。後何日か借りておくぞ、あいつ」
『え?待って、ほんと、何?何事なの?』
「詳しい話は先生に聞け」
『は?待』
 最後まで聞かずに、左馬刻は通話を終了させ、そのまま電源を落とした。
 正直、まだ独歩の匂いは消えていない。発情期はないと言っていたが、確実に発情期に入っているのだろう。携帯電話を戻すついでに鞄の中を探してみたが、抑制剤は入っていなかった。
 灰皿に押しつけて煙草を消し、一本目の水を飲み干してしまう。残った一本を持って寝室へ戻り、時刻を知らせる時計を伏せた。
 独歩には、時間を忘れてもらう方がいい。
 寝顔を見ていても良かったが、この匂いの中では我慢をするのが難しい。
 冷えた水の入ったペットボトルを、独歩の頬へしばらく当てていると、ゆっくりと瞼が上がる。その下から覗いたのは、まだ、熱に浮かされているような、蕩けた瞳。
「わりぃな、起こして」
「けほっ」
「やっぱ声出ないな。水飲むか?」
 目の前でペットボトルを揺らしてやれば、小さく頷く。まだ意識が覚醒していない、眠そうな独歩の頭を支え、水を飲ませてやる。
「んっ」
「さて、と」
 三分の一程飲んだのを確認して、ボトルの蓋をして横へどかし、寝起きで体に力が入らないらしい独歩の体を、膝の上へ乗せる。
「俺様の気が済むまで付き合えよ」
 言われた言葉を理解していないらしく、不思議そうに首が傾げられる。左馬刻の発するαのフェロモンに当てられてもいるのか、視線が定まらず揺らいでいる。しかし、独歩の理解が及ぶまで、意識がしっかりと覚醒するまで待つ気など、左馬刻にはさらさらない。
 少し前まで繋がっていて柔らかくなった場所へと、左馬刻は自身の昂ぶったものを押し当て、そのまま細い体を貫いた。
 湿ったそこは難なく左馬刻を受け入れ、喜ぶように収縮を繰り返す。突然の衝撃に独歩の喉は反り返っているが、声は出ない。
 その喉元に噛みついて、痕を残す。うなじだけではない。全身に消えない痕を残して、刻みつけてやりたかった。
 これは俺だけの、俺のためのΩだ、と。







お付き合い頂き、ありがとうございました。
随分と久しぶりにBLを書きました。
そして、大分楽しく書きました。
後日談的な物を一話、そして続編があります。
よろしければそちらもお付き合い下さい。
ああ、多分帰ったら独歩は一二三に問い詰められるでしょう。








2021/9/4初出